場所

盛岡市内丸

現在の名称

岩手公園

地勢と遺構

かつての北上川(北上古川)は湾曲しながら市内菜園付近を流れ、下の橋下流直下で中津川と合流していた。この合流地点の浸食段丘上に築城されたのが盛岡城である。城は2つの川にはさまれ、さらに御城内(岩手公園地内や岩手日報社前の池など)の堀、重臣が居住する外曲輪、その外に諸士や町人街の遠曲輪という三重の塁濠によって守られていた。その規模は東西1,100メートル、南北1,300メートルに及び、中核となる御城内の標高は143メートル、比高20メートルほど。
御城内は本丸、二の丸、三の丸などから構成され、それぞれ盛岡産花崗岩(かこうがん)を用いた石垣によって区画されている。本丸は南端に位置し、東西70メートル、南北55メートルほどで、三層の天守が建っていた。二の丸は本丸の北側に位置し東西90メートル、南北55メートル、三の丸はさらに北で東西80メートル、南北45メートほどである。

歴史

築城は慶長(けいちょう)3年(1598)南部信直(なんぶのぶなお)によって着手され、完成は利直(としなお)・重直(しげなお)を経た寛永10年(1633)とされる。
南部氏は甲斐(かい)国(現在の山梨県)南部郷を領した光行(みつゆき)にはじまり、承久元年(1219)に源頼朝に糠部(ぬかのぶ)5郡(青森県南部から岩手県北部)を与えられ入部した。三戸城を本拠として各地に一族を配して統治し、南北朝時代には南朝方に属し、室町時代後期には南進し現在の岩手郡や紫波郡を攻略した。天正18年(1592)豊臣秀吉によって岩手・紫波・稗貫(ひえぬき=現在の花巻市)の3郡を正式に与えられ領土が南に広がり、九戸政実(くのへまさざね)の居城であった福岡城(九戸城を改称)に本拠を移し、さらに蒲生氏郷(がもううじさと)や浅野長政(あさのながまさ)らのすすめによって不来方(こずかた)の地に築城を決意した。これが盛岡城である。
南部氏が福岡城から盛岡城へ移ったのは元和年間(1615-1623)といわれるが、たび重なる洪水による石垣の崩落があり、一時は斯波氏の居城・高水寺城を改修した郡山城に移転するなどし、重直の代に盛岡城が完成した。
以後、明治に至るまで盛岡藩政の中心となったが、明治7年(1874)に城内の建造物は破却され石垣と水堀の一部が現存するのみである。昭和12年に国指定史跡となり「東北三名城」の名残を今にとどめている。

交通

盛岡駅から車で約10分