大永2(1522)年、伊達稙宗(たねむね)が陸奥国守護職(しゅごしき)に任じられました。このことは、奥州探題制が崩壊し、大崎氏を頂点とする秩序は過去のものになったことを表しています。
 糠部(ぬかのぶ)郡では南北朝時代、南部政長(まさなが)の子孫である八戸南部氏が糠部郡奉行の職を継いで優勢でしたが南朝の崩壊と運命を共にし、先んじて室町幕府側についた南部師行(もろゆき)の子孫・三戸(さんのへ)南部氏が優位に立ち、庶流の一戸(いちのへ)・八戸・九戸(くのへ)の各氏らを率いていたと考えられます。天文8(1539)年、三戸南部の南部彦三郎が12代将軍・足利義晴(よしはる)から偏諱(へんき・将軍や大名が功績のあった家臣に名の一字を与えること)を拝領し、「晴政(はるまさ)」を名乗ったころから急速に勢力を伸ばし、名実ともに、この地域の最有力武将となっていきました。
 このような動向は九戸氏にも見られます。名字の地である糠部郡九戸熊野館(九戸村)から二戸に進出して九戸城を築き、婚姻を通じて浄法寺氏や八戸氏支族の新田(にいだ)氏、七戸(しちのへ)氏、久慈郡の久慈氏らと結んで、三戸南部氏と肩を並べるほどに勢力を拡大していきます。13代将軍・足利義輝(よしてる)の時代に書かれた全国の大名・国人列挙にも、葛西氏とともに、南部大膳亮(だいぜんのすけ・三戸の晴政と考えられる)・九戸五郎(政実(まさざね)と考えられる)と並び称されるほどに成長しました。

 一方、「斯波(しば)御所」と尊称で呼ばれていた志和(しわ)郡の斯波氏は、奥州探題大崎氏が凋落した時代以降にも、一定の勢力を保ち続けていたものと考えられます。また岩手県南の葛西氏も力を保ち続けていました。16世紀前半の葛西氏の惣領は宗清(むねきよ)。伊達成宗(なりむね)の子で、葛西氏に入嗣すると積極的な支配領域拡大を図ります。宗清の跡はその子・晴重(はるしげ)が継ぎますが、晴重の次に家督を継承したのは伊達稙宗(たねむね)の子の晴胤(はるたね)と、伊達氏の影響力が強まっていたことが考えられます。晴胤の子・晴信(はるのぶ)の時代になると、伊達政宗に一層接近します。政宗は当時、大崎氏を服従させ相馬氏を攻撃、芦名氏も破り、会津を手に入れていました。伊達氏の傘下に入った晴信は、これらの合戦に援軍を送り、伊達氏を支援しました。
 一方、南部晴政、その嗣子の晴継(はるつぐ)のあと、紆余曲折を経て三戸の家督を継いだ南部信直(のぶなお)は、前田利家を通じて豊臣秀吉への接近を図ります。天正15(1587)年には秀吉から上洛の許可をもらうとともに、利家から天正18(1590)年に実現する奥州仕置の情報を入手します。この時点で、豊臣政権は信直を大名として公認し、九戸氏以下はその家中として扱われました。
 天正16(1588)年、南に向かって進軍した信直は、高水寺城の斯波氏を滅ぼし、岩手・志和の二郡を手に入れてます。このことは、斯波氏と関係の深かった和賀(わが)氏・稗貫(ひえぬき)氏・阿曾沼(あそぬま)氏らに大きな衝撃を与えました。

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