盛岡藩の金山開発

 天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置によって、東北各地の戦国大名たちの領地が認定されます。このとき、鹿角郡は三戸(青森県三戸町)に本拠を置く南部信直(なんぶのぶなお・のちの盛岡藩祖)の所領となりました。しかし、鹿角郡全域が南部氏によって平定されるのはさらに10年以上も後のことで、秋田氏やその後に入部した佐竹氏、所領が隣接する大浦(津軽)氏との間でこの地方の鉱山地域をめぐる領地争いは、長期にわたって続いたものと思われます。
 慶長3年(1598)、鹿角境奉行だった北十左衛門(のちの盛岡藩初代金山奉行)によってまず白根金山(のちの小真木金山)が、続いて五十枚、西道、槙山など尾去沢(おさりざわ)の諸金山が開発され、「田舎なれども 南部の国は 西も東も金の山」と民謡・からめ節(金山踊)などにうたわれるゴールドラッシュを迎えます。
 藩政時代を通じて盛岡藩の領内では100以上の金山が開発されたと伝えられていますが、なかでも盛んであったのが紫波の佐比内(さひない)金山や鹿角の白根金山であり、尾去沢では計18の金山が開かれていました。
 金山の開発によって、江戸時代初めの盛岡藩の財政はきわめて豊かであったと思われます。金山自体のにぎわいも『東北鉱山風土記』によれば、慶長年間(1596-1614)には金掘工が4,000人近くもいて、山間にたちまち数千件の鉱山街が出現するほど盛んでした。また星川正甫は『食貨史』で「軍国多事、国費多様の折にもかかわらず、公私ともに封内の富、既に天下に甲(かん)たり」と述べています。
 このゴールドラッシュは70年ほど続きますが、寛文年間(1661-1672)に入るとやがて下火になります。寛文4年(1664)の白根金山の銅山への転換など、やがて尾去沢では金山にかわって銅山の開発が進められています。