江戸時代の都市の発展は、食用・魚肥・魚油など海産物の需要を増大させました。また、鎖国下の海外貿易では煎海鼠(いりこ)や干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかのひれ)などの長崎俵物(たわらもの・ひょうもつ)が代表的な輸出品でした。豊かな三陸の海を有する盛岡藩や八戸藩、仙台藩の商人も江戸の問屋を通じて俵物集荷組織に組み込まれていましたが、その中でも盛岡藩吉里吉里村(きりきりむら・大槌町)の前川善兵衛(まえかわぜんべい・通称:吉里吉里善兵衛)が有名です。
 前川家が吉里吉里に移り住んだのは近世初頭、生産地の商人として活躍し始めるのは初代甚右衛門(じんえもん)の晩年と考えられています。二代善兵衛富永(とみなが)の代の元禄期(1688〜1704)になると廻船問屋(かいせんどんや)として台頭し、閉伊(へい)地方の魚類・塩・大豆・小豆などを他藩に移出するようになります。享保期(1716〜36)には三代善兵衛助友(すけとも)が活躍、四代善兵衛富昌(とみまさ)の延享期(1744〜48)から宝暦期(1751〜64)に前川家は全盛期を迎え、宝暦4(1754)年には特権御用商人として7,000両の御用金を藩に上納しています。また明和期(1764〜72)には、長崎俵物を支配していた岡太平治(たへいじ)や友永三治(さんじ)と組んで八戸藩領や盛岡藩領の宮古・大槌両通の煎海鼠や干鮑を大量に買い集め、江戸や大坂に廻送することで莫大な富を手に入れれます。明和5(1768)年、病死した太平治に代わって黒木与平治(よへいじ)が俵物方支配人となるとさらに大規模な取引を進めますが、翌年には俵物代金700両の支払延期問題が発生。これを契機に前川家の経営は不振に陥り、天明元(1781)年には閉伊地方の俵物集荷は宮古の和泉屋に交代となり、前川家は没落しました。

 近世の岩手の製鉄は永禄期(1558〜70)、仙台藩磐井(いわい)郡大籠(おおかご)村(藤沢町)の村人が備中(岡山県)に赴いて製鉄の技術を学び、また技術者を招いた大籠村で製鉄を始めたことが起源といわれています。その後、仙台藩の技術が各地に広まり、盛岡藩でも閉伊(へい)郡や九戸(くのへ)郡で製鉄業が成立しました。中でも九戸郡は盛岡藩の製鉄の中心地として大いに発展し、18世紀後半以降になると仙台や江戸にも移出されるなど、備中鉄との販売競争に打ち勝って、東日本太平洋岸の市場をほぼ独占するまでに成長します。
 近代製鉄は安政4(1857)年、盛岡藩士・大島高任(おおしまたかとう)が大槌通甲子村(おおつちどうりかっしむら)大橋に溶鉱炉を建設、我が国で初めて銑鉄(せんてつ)を生産したことに始まりました。良質な鉄鉱石と製炭材料としての森林資源、送風装置を動かす水車の動力源となる水流に恵まれていた釜石は、溶鉱炉による鉄生産の先駆地となりました。

いわての文化情報大事典(いわての鉱山史:盛岡藩の金山開発