場所

青森県三戸町

現在の名称

城山公園

地勢と遺構

標高120メートルほどの丘陵に築かれた山城である。東に馬淵(まぶち)川が、西に熊原川が流れ、合流地点の断崖・留ヶ崎(とめがさき)に位置している。城の正面にあたる綱御門や、裏手の鍛冶屋御門周辺の石垣が残っている。また近年、綱御門が復元された。町文化財指定の旧表門は町内の龍川寺に、旧搦手門(からめてもん)は同じく法泉寺に移築されている。

歴史

三戸城は南部氏24代・晴政(はるまさ)が築いた山城で、天文8年(1539)にそれまでの居城・本三戸城(聖寿寺館(しょうじゅじたて)・青森県南部町)を家臣の謀反による放火で焼失した晴政が、永禄年間(1558〜70)に留ヶ崎に築いた新城が現在の三戸城である。留ヶ埼は三戸盆地のほぼ中央部、北は熊原川、南は湿地帯に位置する丘陵地で、晴政はこの丘を削って本丸、淡路丸を築き、石垣を積んだ。
城郭として本格的に整備したのは26代信直(のぶなお・盛岡藩祖)の時代で、藩庁や御殿、三層の櫓(やぐら)などが建造され、天正19年(1591)九戸政実(くのへまさざね)の乱後、豊臣秀吉から和賀など三郡を加封されて10万石を領し、これを機に居城を九戸(福岡)城に移し、三戸城には弟の政信(まさのぶ)をおいた。南部氏の居城が盛岡に移されると三戸城には城代が置かれ、後には代官が置かれるようになったが、破却されずに長く残した。
藩政時代には、本丸をはじめ武家屋敷が並んでいた小高い山が昭和31年、県立公園に指定され現在まで至っている。南部氏発祥から800余年の歳月を経た今日も多くの遺跡が保存され、南部三郎光行(なんぶさぶろうみつゆき)を祀る糠部神社(ぬかのぶじんじゃ)、三戸城本丸の角櫓(すみやぐら)を復元し資料館となっている温故館、約1,600本の桜などが見所となっている。

交通

三戸町役場から車で約5分