11世紀に入って奥六郡を中心に勢力を拡大した安倍氏の出自と政治権力の形成過程については、あまり明確ではありません。ただ、在庁官人(ざいちょうかんじん・在地で鎮守府を代表する立場)であったことは事実で、官職に基づかない「酋長」を自ら称していたようです。
 安倍頼良(よりよし)の時代には奥六郡の南限であった衣川を越えて国府領の岩井郡の支配に着手、国府多賀城との摩擦が生じます。永承6(1051)年、陸奥守藤原登任(なりとう)は秋田の平重成(たいらのしげなり)の軍を動員して安倍頼良を攻撃します。しかし頼良は玉造郡鬼切部(宮城県大崎市鳴子)でこれを迎え撃ち大勝、「前九年の役(ぜんくねんのえき)」(前九年合戦)が始まりました。
 朝廷は同年、源頼義(よりよし)を陸奥守に任命し、天喜元(1053)年には9世紀以降の「鎮官別任」の慣例を破って鎮守府将軍も兼任させ、安倍氏制圧を命じます。頼義の国府着任後すぐに大赦があり、頼良も罪を許されて頼時(よりとき)と改名しますが、天喜4(1056)年、陸奥守の任期を終えた頼義が鎮守府将軍として胆沢城に赴いた帰途に、頼時の長男貞任(さだとう)が頼義一行を襲い、合戦が再開されます。
 頼義は奥六郡の北の支配者である安倍富忠(とみただ)を味方につけ頼時を討ちますが、その後は貞任軍に苦戦、「黄海(きのみ)の戦い(岩手県藤沢町)」でも大敗を喫するなど、形勢は不利となります。そこで頼義は秋田の清原武則(きよはらのたけのり)に援軍を要請、1万の兵を合流した頼義軍は一気に盛り返し、康平5(1062)年、厨川(くりやがわ)柵・嫗戸(うばど)柵(盛岡市)に立てこもった貞任らを破って、前九年の役は終わりました。

いわての文化情報大事典(いわての城・館:鳥海柵白鳥舘