場所

奥州市水沢佐倉河字渋田

現在の名称

胆沢城跡

地勢と遺構

北上川と胆沢川の合流地右岸の水沢段丘上、標高50メートル程度の平坦地で、水沢から金ヶ崎(かねがさき)に向かう県道270号西根佐倉河線沿いにある。城の規模は一辺約670メートルの方形で、外郭南面中央に楼門(重層構造)の「南門」があったとみられ、ここから幅12メートルの南大路が南方にのびている。外郭北面中央には「北門」が配されているが、規模は南門より小さい。外郭東西門もあったと思われるが、詳細は不明である。
中央やや南よりの一角に政庁跡があり、内部正面には正殿跡がある。政庁を区画する内郭線にも東西南北に門があり、正殿前は広場になっていたと思われる。

歴史

胆沢城は延暦21年(802)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が造営し、大同(たいどう)3年(808)までには多賀(たが)城(宮城県)から「鎮守府(ちんじゅふ)」が移された、国指定史跡の古代城柵である。発掘調査によって、古代陸奥国の北半部を統治する機関であり施設であることが判明している。
北上川中流域の「胆沢」の地が史上に現われてくるのは、朝廷の東北経営の北進に伴い、8世紀後半の宝亀7年(776)のことである。この時期は、律令政府の攻撃目標が陸奥国最大のエミシ勢力の拠点「胆沢の地」にしぼられてきた段階である。胆沢は「山海(さんかい)二道」の奥地(栗原方面の山道(さんどう)と北上川流域の海道(かいどう)が北方で合流するの意)と認識されていた。
これ以後、延暦20年(801)まで、古代国家と阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を中心としたエミシ軍との戦いが展開する。しかし延暦21年、当地方の軍事首長層であった阿弖流為、母礼が同族500余人を率いて投降し、その後2人は京に押送され、同年8月河内国椙山(すぎやま)(大阪)で処刑されたことで、胆沢エミシの抵抗が終了した。
朝廷は、胆沢城造営の翌年、再度田村麻呂を遣し、志波城(しわじょう・現在の盛岡市)を造営、弘仁3年(812)には水害のあった志波城をやめ、徳丹城(とくたんじょう・現在の矢巾町)を新たに造営した。
城跡は大正11年に国指定の史跡となっている。

交通

水沢駅から車で約15分
東北道水沢ICから約5分