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最頂部の本丸(御殿)跡は東西60メートル南北120メートルで、二の丸跡は東西50メートル南北100メートルほど。各郭には階段状の腰郭が続く。主要な郭を巡る空堀と土塁は改変を受けて不明な点も多いが、急崖をなす東辺を除いて二重、三重の塁濠(るいごう)が中腹から山裾にかけて残っている。
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家長以降の斯波氏は現在の紫波郡・花巻市東部などの66郷を支配し、さらに大永元年(1521)および天文6年(1537)には南部氏と交戦し、岩手郡を攻略している。隆盛を極めた斯波氏は「斯波御所」と称され、詮高(あきたか)の代には次男を雫石に、三男を猪去(いさり)に配して「三御所」といわれる。しかし、三戸南部の南進政策は対立抗争を激化させ、天正16年(1588)岩清水右京の謀叛を契機に南部信直の攻略を受け滅亡した。 南部信直は高水寺城を郡山城と改め、中野康実(なかのやすざね)を城代に任じ、郡山は郡治の中心となった。盛岡城築城に際しては南部利直の10数年間の居城にもなったが、寛文(かんぶん)7年(1667)に至って廃城となり、古材は盛岡城本丸に使用されたと伝えられている。 昭和3年、陸軍の演習に訪れた昭和天皇の御野立所となり、記念に全山ならびに道路側面に桜を植えたのが始まりで、その後も植栽を続け、現在は桜の名所として知られている。 |
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