場所

雫石町下町東

現在の名称

雫石(滴石)城跡

地勢と遺構

出羽国への交通の要衝にあたる雫石盆地のほぼ中央の台地の先端に位置し、南に雫石川、北に蟹沢川が東流する。標高は約200メートル、低湿地との比高は約10メートルである。東西に連なる郭は東から本丸、二の丸、三の丸跡と伝えられ、さらに西郭が続く。東西は約300メートル、南北は約100メートルほどで、市街地化が進んでいる。本丸は東西が約90メートル、南北が60メートルほどで、幅6~12メートル、深さ2~5メートルの薬研堀も残っており、斯波氏の氏神の八幡宮をまつる。

歴史

築城は南北朝時代、南朝方の拠点として滴石戸沢氏(しずくいしとざわし)によって興国(こうこく)元年(1340)ごろに築かれたとされる。滴石戸沢氏の勢力が及んでいた秋田・仙北(せんぼく)地方を後方に控え、南部氏らとともに行動し、そのころ高水寺城(現在の紫波町城山公園)にあった北朝方の斯波氏と対峙するため鎮守府将軍・北畠顕信(きたばたけあきのぶ)を迎えた。顕信の在城は正平(しょうへい)元年(1346)から5年間とされている。その後滴石戸沢氏の本流は角館に移り(諸説あり)、16世紀になって城主戸沢氏(一説には手塚氏)は南部氏と対立する。天文9年(1540)の戦で戸沢氏は南部氏に敗れるが、戦後の混乱の中、斯波氏が代わって滴石を手中に収め、雫石氏を名乗り3代に渡って在城した。このときに「滴石」が「雫石」に改められたとされる。しかし雫石(斯波)氏も天正14年(1586)、「よしゃれ」の故事を残し南部氏に敗れ、城は天正20年(1592)に破却となった。

交通

雫石駅から車で約5分