宮城県気仙沼(けせんぬま)から三陸沿岸の各地を結び青森県の八戸に至る道筋を「浜海道」と呼びます。江戸時代盛岡藩では「海辺道」と呼んでいました。藩の悪政に耐えかねて立ち上がった三閉伊(さんへい)通り(野田・宮古・大槌代官所管内)の農漁民は、嘉永6(1853)年「小◯(こまる)」の旗を掲げ、仙台領を目指して浜街道を南下しました。浜街道の地形は宮古以南のリアス式海岸、以北は隆起海岸で、ほとんどの川が西から東へ海岸線に直角に注ぎ、山の台地に深い谷を刻んでいます。そのため南では峠越え、北では坂越え、谷越えの難所が多くあります。この厳しい道の輸送手段として、急坂・悪路に強い牛が使われ、牛方が往来した道でもありました。