久慈・野田街道は盛岡城下と三陸海岸北部の久慈および野田を結ぶ街道です。沼宮内(ぬまくない)駅の北尾呂部(おろべ)で奥州街道と分かれ、葛巻(くずまき)・木売内(きうりない)・下戸鎖等から宇部、および関と小国の間の角掛(つのかけ)峠で分かれて久慈に行くルートです。藩政期、岩泉を経由し野田通代官所の置かれた宇部に至る本野田街道もありましたが、このルートの方が距離が短く、より多く利用されました。寛文4(1664)年末の八戸藩成立後、野田方面から盛岡へは途中他領を通ることになりました。この街道は塩の道ともいわれ、江戸後期に八戸藩久慈通には73、盛岡藩野田通には38の塩釜があり、これらの塩釜で直煮で作られた塩が、盛岡城下や沼宮内通へ久慈・野田街道を通って運ばれました。一方内陸部からは米や雑穀等が運ばれ、また久慈・野田地方は代表的なたたら製鉄地帯で、この鉄が内陸部、さらに鹿角や沢内を通って秋田や津軽地方にも運ばれています。