宮古街道は盛岡城下と宮古、さらには領内の主要湊・鍬ヶ崎(くわがさき)を結ぶ街道です。宮古街道は「五十集(いさば)の道」とも呼ばれ、沿岸の海産物や北上山地の豊かな林産資源を運び出す重要な流通ルートですが、難所が多く、整備が十分行き届かない街道でもありました。いくつかのルートがあり、盛岡城下を出て八木田(やぎた)-高畑(たかばたけ)-大蔵峠と山中を行く江戸時代前期からのルートや、山に登らず簗川(やながわ)をさかのぼる新宮古街道等です。鞭牛(べんぎゅう)和尚は閉伊川筋の道路改修に生涯をささげました。宝暦8(1758)年街道最大の難所区間である蟇目(ひきめ)-平津戸(ひらつと)間の改修に着手しました。盛岡-宮古間に連々と横たわる北上山地と、それを深くえぐって曲折した渓谷をつくる閉伊川が、領内でも屈指の難所続きの道とし、他に例を見ない再三の改修工事が必要でした。