秋田街道とは、盛岡城下から雫石、国見峠を越えて秋田藩領の生保内(おぼない)、角館(現 仙北市)方面に至る奥羽山脈越えの街道です。「秋田街道」の名称が定着するのは明治期に入って仙岩峠が開かれてからで、それまでは盛岡藩では「雫石街道」「秋田往来」と呼ばれ、ほかに「生保内街道」「角館街道」「盛岡街道」「南部街道」など、行き先や目的によってさまざまな呼称が用いられていました。 この街道の特徴は奥羽山脈・国見峠の難所を越えることで、古代以来、主に戦略の道として開削され、中世を通じて軍馬の往来が盛んだったことです。近世に入り、盛岡の城下町としての整備が進むにつれ秋田など日本海沿岸との交易が盛んになったことで、盛岡・秋田両藩の藩口となる橋場(岩手県雫石町)と生保内(秋田県仙北市田沢湖)に御番所が設けられ、物資や人の出入りを取り締まるようになりました。